フォントの歴史から印刷を見てみよう・和文漢文編

フォントの歴史から印刷を見てみよう・和文漢文編アート・クリエイティブ

印刷やDTPなどにかかせないフォント。

コムデザでは以前、欧文フォントの歴史について紹介いたしました。

一方、日本語や中国語などアジアのフォントは欧米のものとまた違った歩みをたどっています。

今回はそんな和文漢文のフォントの歴史について、まとめてみました。

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世界初の印刷技術が誕生したふるさと・中国

フォントの話をする前に、まずはアジアの印刷の歴史をざっと紹介します。

というのも、中国大陸は印刷に欠かせない墨や紙が生まれた地なのです。

印刷インクに使われる真っ黒な墨は五千年前からこの地で使われ、105年には蔡倫という官僚が実用的な紙の製造方法を発明しました。[注1]

そして932年に馮道という政治家が儒教の経典を木版で複製したのが、世界最古の大規模な印刷事業といわれており、北宋の発明家・畢昇は1040年代に、樹脂や灰などを用いた活字を発明しています。[注2]

しかし漢字の活字は文字数が極端に多くなり、製作や保管に手間がかかってしまうため、19世紀後半までアジアでは活字よりも木版での印刷が主流でした。

 

漢字のフォント(書体)の歴史は「楷書体」がルーツ

漢字の歴史は、殷代(紀元前17〜11世紀)に占術で使われた甲骨文字まで遡ります。

その後も技術の進歩とともに書体も大きく変わり、後漢代(25〜220年)に最終的に登場したのが楷書体です。[注3]

それまで使われていた隷書体は木簡に書かれていたため字体が横長で平べったいのに対して、紙の普及と同時期に広まっていった楷書体は現在の漢字のように正方形の枠におさまるような形をしています。

また隋代(581〜618年)、律令制(法律制度)や科挙制度(官僚の登用試験)が整備されると、行政での共通書体として楷書体が官僚を中心に使われるようになりました。[注4]

楷書体は現在の漢字の基礎といえる書体で、中国の正書体や日本のUD教科書体など現在でも、楷書体から派生して生まれたフォントが使われています。

 

漢字書体のスタンダード:「明朝体」と「康煕字典」

北宋代(960〜1127年)には楷書体の字形が徐々にシンプルになっていき、明朝体が成立します。

明朝体は木版印刷からDTPにいたるまで、漢字の印刷の標準的な書体として用いられてきました。

明朝体は楷書体よりも画線がまっすぐで、細い横線と太い縦線なのが特徴です。

木版に字を彫る際、平行方向の木目に合わせて彫りやすいよう、このような字形になったため、明朝体は木版印刷のために改良された書体と言えます。

現在の明朝体は康煕字典という漢字字典が典拠になっています。

康煕字典は清の康熙帝(在位:1661〜1722年)の命で編纂された漢字字典で、歴代の字書の集大成として47,035もの漢字の意味や発音などの情報がまとめて収録されました。[注5]

18世紀になるとヨーロッパ大陸で東洋研究がブームになり、多くの学者が中国語研究を行いました。

その中の一人、フランスの東洋学者であるエチエンヌ・フルモンの監修のもと、18世紀後半に明朝体の活字が製造されたのですが、この明朝体も康煕字典にある字を参考にしていました。[注6]

 

日本における漢字:「連綿体」と嵯峨本の流行

日本では平安時代から幕末までの長い間、連綿体が一般的に使用されました。連綿体は複数の文字を一続きにつなげて書く書体で、特に平安時代は文学作品などの写本に連綿体が使われました。

日本に金属活字が伝来したのは戦国時代。天正遣欧使節団がローマから西欧式の活版印刷機を持ってきたこと、朝鮮出兵で銅活字が朝鮮半島から伝わってきたことがきっかけでした。[注7]

慶長(1596〜1615年)になると、京都の嵯峨で連綿体の木製活字を使って出版された嵯峨本が人気を博しました。

嵯峨本は文章だけでなく木版による挿絵も入れることで、当時の書物としてはかなり豪勢な仕上がりになっているのが特徴です。

しかし連綿体の木製活字は種類によってほとんど使用されないものもあり、活字を制作したり管理したりする負担と見合わないことから、嵯峨本の製造は数十年で途絶えてしまいます。[注8]

ちなみにこの頃には、駿河版銅活字など国産の金属活字も出てきています。

 

近代的な活版印刷製法の国内への伝来

18世紀頃、イギリスやフランスなど西欧諸国がアジアに本格的に進出し、自国の植民地としてインフラを整備した結果、アジアでの活字の現地製造が可能になりました。

特に北米長老教会により1844年に中国で開設された印刷所・美華書館では、たくさんの宗教書や科学書などの書籍が印刷されました。[注9]

日本では幕末期に活躍した教育者・本木昌造により、1869年長崎製鉄所の中に活字伝習所が設置されました。

最先端の印刷技術を教えるために講師として宣教師のウィリアム・ギャンブルが招かれたのですが、彼が美華書館から持ち込んだ明朝体の活字が現在、日本で使われている明朝体の典拠となりました。[注10]

 

その後、本木昌造の弟子である平野富二らが、東京や大阪などの主要都市に活字製造所を設立して金属活字や印刷機の国産化を推進しました

それまで木版印刷に追いやられていた活版印刷は印刷技術の進化や政府の先進技術を積極的に導入する方針により、公報や新聞などあらゆる出版物に使われるようになりました。[注11]

 

「活字用」の漢字フォントが次々と誕生

東京築地活版製造所や秀英舎などの活字製造メーカーは、明朝体以外の書体の活字を手がけるようになりました。

1895年には東京築地活版製造所が出した活字の見本帳、『座右之友』にゴシック体の活字見本「五號ゴチック形文字」が掲載されています。[注12]

その後、ゴシック体は見出しなど本文以外の部分を際立たせるために使われるようになり、ゴシック体は明朝体と並んで活版印刷の標準書体となっていきました。

1960年代に電算写植が登場すると写植用のフォントも作られました。

特に1970年代に登場した「ゴナ」や「ナール」は、現在でも看板や標識などに多用されているゴシック体のフォントです。[注13]

Windowsに標準搭載されている「メイリオ」も、ゴシック体の特徴を引き継いだデジタルフォントです。

Windowsにデフォルトで入っているフォントも、大体は明朝体かゴシック体のどちらかから派生したものなのです。

 

悠久の歴史とともに漢字の書体も変わってきた

今回はアジアのフォントだけでなく印刷も含めて歴史を見てきました。

印刷と聞くとどうしてもグーテンベルクや近世ヨーロッパのイメージが強いため、実は中国や日本などで古くから印刷事業が盛んだったというのは興味深かったですね。

しかも普段何気なく見ている明朝体や教科書体などの書体に、1000年以上もの歴史があるというのも面白かったです。

前回の欧文フォントと同じく日本語のフォントも目的にあわせて使い分けてみてくださいね。

 

・関連資料のリンク

[注1] ChinaKnowledge: Cai Lun 蔡倫
[注2] 中国語版Wikisource:舊五代史/卷126
[注3] Brown University: Introduction to Chinese Characters
[注4] “Concept of Cursive Writing in the Northern Song Dynasty”
[注5] WEB版康熙字典
[注6] Google Books: Essai historique sur la typographie orientale et grecque de l’Imprimerie Royale
[注7] 歴史の文字 記載・活字・活版: 第二部−活字の世界
[注8] 人文学オープンデータ共同利用センター:伊勢物語
[注9] 深圳市投資基金同業公会:美華書館
[注10] j-stage: William Gamble の生涯
[注11] 国立国会図書館デジタルコレクション:「官報 1886年6月1日」
[注12] 国立国会図書館デジタルコレクション:「座右之友」
[注13] 写研:写研アーカイブ

 

・関連サービス:グラフィックデザイン

 

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